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親鸞聖人
鎌倉初期の浄土真宗の開祖。号、愚禿(ぐとく)

 
 
親鸞聖人(しんらんしょうにん)

承安 3年(1173年) 4月1日法界寺(京都市伏見区)付近で誕生

養和 1年(1181年) 9歳 春に天台宗青蓮院(京都市東山区)で出家得度して比叡山に入る(僧名、範宴)
この翌年妻の恵信尼が誕生する

建久 2年(1191年) 19歳 磯長の御廟で聖徳太子の夢告を授かる

建仁 1年(1201年) 29歳 頂法寺の六角堂で救世菩薩の夢告を授かり、比叡山を出て吉水の源空の教団に入る

元久 2年(1205年) 33歳『選択本願念仏集』を書写し、源空の真影を図画この頃、僧名を「綽空」から「善信」に変える

承元 1年(1207年) 35歳  越後へ流罪 源空は土佐へ幕府より、俗名「藤井 善信」と付けられるが、その名を棄て「愚禿釈の鸞(親鸞)」と名乗る。
5年後 源空入滅(行年80歳)

建保 2年(1214年) 42歳 この頃、越後から東国(関東地方)に移住して布教活動をする

元仁 1年(1224年) 52歳 『教行信証』※1の草稿本に末法に入って638年と記す覚信尼誕生

天福 2年(1234年) 62歳 この頃関東から京都に移住して著作活動に入った.。この年幕府は専修念仏禁止する

宝治 2年(1248年) 76歳 『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述

建長 2年(1250年) 78歳 『唯信鈔文意』※2を撰述

建長 4年(1252年) 80歳 『浄土文類聚鈔』を撰述

建長 7年(1255年) 83歳 『尊号真像銘文』※3、『愚禿鈔』※4、『浄土三経往生文類』※5を撰述『皇太子聖徳奉讃』を作る

建長 8年(1256年) 84歳 『入出二門偈』※6 『往相回向還相回向文類』この年、善鸞を義絶する

康元 2年(1257年) 85歳 『一念多念文類』※7と『正像末和讃』を著す

弘長 2年(1262年) 90歳 11月28日弟の尋有の住む三条富小路善法院にて入滅

明治 9年(1876年) 11月28日に明治天皇より「見真」の大師号を授かる



※1 教行信証とは、正式な名称を『顕浄土真実教行証文類』と言い、親鸞聖人が長年にわたり改訂と私釈を加え、徹底的に他力救済の教えを説いた浄土真宗の根本聖典。(この中に、日頃お勤めしている正信偈が書かれています。)

※2 唯信鈔文意とは、聖覚法印撰述の「唯信鈔」に引用された経釈の要文を抜き出して、一般の人達にもわかりやすいように文を註釈したもの。

※3 尊号真像銘文とは、浄土真宗の御本尊である阿弥陀如来の尊号(名号)や先徳の絵や像に書かれていた文を集め、註釈を加えた書物。

※4 愚禿鈔とは、親鸞聖人が浄土教の諸先徳の教えを聞き、信心の立場を明らかにされた書物。

※5 浄土三経往生文類とは、浄土真宗の根本経典である浄土三部経(無量寿経、 観無量寿経、阿弥陀経)の教説をわかりやすいように経典の重要な文を集め三経の真実や方便をあかされた書物。

※6 入出二門偈とは、五念門(礼拝、讃嘆、作願、観察、回向)の行にちなんで信心の徳をあらわした歌。

※7 一念多念文類とは、東国(関東地方)の門弟が一念・多念の論争が起こり、親鸞聖人は隆寛の「一念多念分別事」に依りながら、この書物に引用されている経論釈の要文を抜き出して註釈を加えて、一念・多念いずれにも偏らないことを明らかにされたもの。

☆ 和讃―仏教賛歌の1つで、仏・菩薩・祖師・先徳、経典・教義等をほめたたえて、日本語にした賛歌。親鸞聖人においては、三帖和讃『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』と『皇太子聖徳奉讃』の和讃を作られた。

浄土和讃‥阿弥陀仏の光明と荘厳や浄土三部経の意や利益や大勢至菩薩の徳を讃えたもの。

高僧和讃‥七高僧〔龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信(恵心僧都)、源空(法然)〕によって伝承された念仏の教えの徳を称讃して、教旨を簡単に述べたも。

仏智疑惑和讃、愚禿悲嘆述懐‥他力の教法が末法の時機に相応していると、讃嘆したり、他力の信心を疑う自己を誡めた和讃や悲嘆されたもの。

皇太子聖徳奉讃(聖徳太子和讃)‥聖徳太子が日本に仏教を広められた恩徳を讃嘆されたのをふくめたのが、正像末和讃である。

◎参考文献 真宗新辞典(法蔵館発行)  岩波仏教辞典 第二版(岩波書店発行)      真宗聖典 (東本願寺出版部発行)
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