「いのちを尊ぶ」ってどういうこと?
天上天下唯我独尊
今からの質問に「イエス」の場合は右手をグーにして力強く上に上げてください。「ノー」の場合は左手でパーで。
質問
①「あなたは、生きていますか?」
②「あなたは、ちゃんと生きていますか?
③「あなたは、尊く生きていますか?」
いかがでしょうか。「生命尊重」とか「いのちの尊さ」と言いますが、「尊い」ってどんなことなのでしょうか。「偉い人」「賢い人」「善い人」「正しい人」「強い人」「かっこいい人」「美しい人」「優しい人」などと、「尊い人」というのはどうちがうのでしょうか。
仏教は、お釈迦様の、「どんな境遇に生まれても、年を取っても、病気になっても、死ぬと分かっていても、愛する人と別れることになっても、今を尊く、そして未来に安心して生きる道はないのか」という問いから始まりました。ですから仏教とは、人間がどう生きると「尊く」生きられるのかを教えます。お寺の本堂や家のお内仏で私たちが手を合わせる先を「本尊」と言いますが、「本尊」とは、私の人生で「本当に尊い」ということ」です。ですから、本尊に手を合わせるのは、自分にとって本当に尊ぶべきことは何かを問うことです。そこで、忘れていた何かを取り戻す。意識からどこかへ飛んで行っていたことを、意識し直すのです。私たちが自分の尊さを裏切りながら生きていないかが問われますね。
わたしたちは、本尊が分からないから、いつもそれは横に置いて「とりあえず」ばかりで生きています。「とりあえず今だけは」「とりあえず健康で若々しく」「とりあえず自分が得するように」「とりあえずお金を」「とりあえずいい学校へ」等々「とりあえず」ばかりではありませんか。それはそれでとても大切なことです。ですが、子どもから「健康になって、それからどうするの?」って言われたら、どう答えますか。
お釈迦様は「天上天下唯我独尊」と、「あなたはどんな境遇になっても、かけがえのないあなたであって、そのままで尊いのですよ」と、いのちには主従も上下も優劣もないと教えています。私たちは「条件を満たしたら認めてあげる」と、いのちを選別し序列をつけ、自分の都合に合うかどうかで、見ています。
ブータン王国に殺虫剤がないのは、虫を人間の都合で益虫とか害虫とかに分けることを考えたこともないからだそうです。私たちは、蝉を捕ってきた子どもに「かわいそうだから逃してあげよう」と言っているそばをゴキブリが通ると、問答無用で殺してしまいますよね。
そういう「自分の都合」は、時に「会社の都合」「国家の都合」「地域の都合」「商売上の都合」「チームの都合」等の形を取ります。その時によく使われる物差しが、効率化とか功利主義(最大多数の最大幸福のためには少数者の不利益はやむを得ない)です。そして、何かおかしいと思いつつも「(みんながそうだから)仕方がない」と自分に言い訳しながら、見えないふりをして生きていくことになっていませんでしょうか。いのちは、無条件に存在が肯定されなければならないのです。
「阿弥陀仏」の別名で「無辺光仏」という名前があります。「いのちに境界線を引かない仏様」ということです。残念ながら、私たちの社会は、いのちの境界線を引いて、いろいろと条件や言い訳をしながら、「やむを得ない」と自分を納得させようとします。私たちに都合のいいいのち優先ということでしょうか。しかし、私にその意義がわかっていないだけで、どのいのちも「この私」にとって意味や価値や必要性のある、関係の中の尊いいのちであると、お釈迦様は教えられます(一番いてほしくない人が私を支えている一人です)。
殺人も戦争もいじめも相手の尊さを見失うことで起こります。そういう他者の尊さ・人間性を見失った姿を「非人間的」と言うのでしょう。そういう後ろめたさを抱えた息苦しさが蔓延する社会は、生きづらいですね。立場が変われば、今度犠牲になるのは自分です。結局、今しばらくは都合よくても、誰も安心できない、ストレスに満ちた社会になっていきます。
生きるとは、「ともに生きる」ことです。今、目の前が都合よく思えても、全体として「ともに」ということにつながらないと、それは自分も不安とストレスの人生となってしまいます。いのちに境界線を引かない世の中を、我が子育てから始めたいものですね。
(2016. 4)
(1) 〈宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ〉
今、いのちがあなたを生きている
教育の場でも、一般社会ででも「いのちの尊さ」が大きな課題になっています。
あまりにいのちを粗末にした悲惨な出来事を目の当たりにし
て、ただ単に言葉だけではなく、様ざまな実験や行動を通して「いのちの尊さ」が訴えられています。
そこには、ともすると「いのちの尊さ」を自分自身も含めて、命を奪う、生命を絶つという直接的にだけ受け止めているむきもあります。
もちろん、殺人否定は「いのちの尊さ」の最も基本的なものであります。
しかし、「いのち」を単に生命とだけとらえていいのでしょうか。
私は、「いのち」をその人(または物)のもつ有形無形の「価値」(値打ち)と受け止めています。
その人が如何なる生きざまであっても、また、その物が如何なる形のものであっても、代えることの出来ない「価値=いのち」があるのです。老人には老人としての尊い「価値」、草木には草木としての代えがたい「価値」があります。
その大きな「価値」に気づき、その深い「価値」を尊んでいくこ
とを「いのちの尊さ」というのではないでしょうか。
そして、「一個の価値」のもつ無限の深さ、無辺の広さに目覚めた人を“仏”(Amitaー無量)といい、その仏の「いのち」を念仏といいます。
念仏とは、今、私の心に届く「如来よりたまわりたる信心」であります。
(2) 本 願 力
一般に「パワーをもらう」「力をもらった」と言う会話をよく耳にします。
明るい笑顔、パワーのある行動、年齢を感じない力の人を見ると、確かに「パワーをもらった!」とワクワクモリモリの気分になりますが、残念ながら長続きしません。
それは、笑顔とか、行動力とか、潜在的な力といったいわゆるパワーは、"その人" の才能だからです。私の才能とは違った力なので、一瞬すごい!と感激したり感動したりするのです。
しかし、本当のパワーは、瞬間的なものではなく、私の生涯を通して持続する力でなくてはなりません。そのパワーを「本願力」といいます。
「本願力にあいぬれば/空しく過ぐる人ぞなし」という詩があります。
この力は、2,500年間にわたって、数え切れない人々に「人生に無駄はなく、すべてのものが持つ価値に気付く力を得て、人生を空しく過ごさないように」と人類の根本の問題に願われた力です。
この本願力という「パワーをもらった」人、大阪で小間物店を開いていた榎本栄一さんは、「またひとつしくじった/しくじるたひに目が開いて/世の中すこし広くなる」と詠っておられます。
「しくじる」とは失敗したことで、失敗すれば顔が上げられなくなります。この失敗はしなかったら良かった、と蹴飛ばしてしまいますが、その失敗で目が開いて、人生が広くなった。と静かなパワーを得た喜びを歌っています。
(2012. 3)